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赤嶺小枝子さんから当会に寄せられた『十一歳の少女の戦争体験記』(昭和19年・沖縄)

『戦火の中を生き抜いた乙女等は今』
     父を追いつづけて        赤嶺 小枝子

昭和一九年十月十日の大空襲の後、山原避難民の先発隊として小禄村役場の命令で、役場勤めの父に従い、私たち家族は、村長さんのご両親とともに、トラックに乗り名護の数久四郎部
落に着きました。大きな家に残ったのは祖母と父でしたが、後に家は兵舎になったようです。
 私は小学校五年生で当時十一歳でした。母、妹二人、弟一人と五人家族の避難生活が始まっ
たのです。父は、小禄村の避難民係りとして、名護の連絡事務所に勤める事になり、次々と
送られてくる避難民を、名護一帯の部落に配置する役目で泊り込みです。母は、村長さんのご両親をお預かりし、四人の子供を抱えての生活に責任の重きを感じていたに違いありません。
 大家さんには、やさしいお情けを戴き畠の作物を分けて貰っていました。二ヶ月ほど経った時(三月二十三日から)、頭上に敵の艦載機『グラマン』が現れ、早急に山の非難小屋へ向かったのです。村長さんのご両親は、親類の方にお願いし、母は、頭、背中、両脇と沢山の荷物を担ぎ、私は、一歳の弟を背中に、両脇にショルダーと精一杯の荷物をかかえ、轟の滝を背中の弟と一緒に胸の高さまでつかる水の中をかきわけて渡り深い山奥へたどり着きました。
 ヤンバルの竹作り小屋はハブとの戦いです。上空では敵機が襲来し、おい茂る木の合間から見える飛行機におびえ、弟の口には濡れたハンカチを押し込み鳴き声を防ぐのに厳しいものがありました。

 何時の間にか父がひょっこり帰り『上空からの爆弾におわれながら避難民の配置をしてきた』と久しぶりの対面でした。いよいよ食糧難に入り、父と一緒に妹を連れて山奥の川へえびを釣りに出かけ、ちょっとした贅沢を楽しみました。
 父はまた山を降り姿を消した日々が続き、二、三回くり返しているうちに名護の連絡事務所の任務を終りかえってきたのです。その後、食料探しに『へゴの茎、ソテツの茎』等で命をつないでいました。その頃、食料探しに山を降りたのか、若い女性が米兵に暴行され、山小屋に帰って首吊り自殺をした人が二、三人いると、子供ながら母から聞かされ、弾だけではなく、そんな恐ろしいこともあるのかと、親から離れることができませんでした。
 六月に入り、父は『ソテツ』狩に部落へ下りると言うことで、多くの人たちと一緒になり「ウチナージ」に着替え、朝早く私も一緒に連れて行くはずだったのですが、一足遅れで父の姿を見失いました。とうとう一人で戻ってきてから母に聞きました。『父さんは何故今日は着物姿だったの』母曰く『南部から逃げ込んできた友軍があちらこちらにいるそうな。体格の大きい父さんだから兵隊と間違われるから』と話してくれました。その日が最後の別れになると知る由もありません。たまたまその日は、山猛爆で射撃隊に包囲されてしまったのです。日中は身をひそめ、夜になって轟の滝まで逃げ込んできたそうですが、その後は、一緒に固まっていると目立つから、それぞれ別行動にしょうと川づたいに帰った人の知らせで一晩中待ちわびていましたが、四、五日たっても帰らず、そのうちにて敵兵が来るから早く逃げようと山小屋を出て更に山奥へ山奥へと川づたいに岩かげに来ました。その時から照明弾、艦砲射撃と、あのすさまじいヒュードンヒュードンと耳をつんざき、山ごと飛ばされそうな恐ろしい日が続きました。その後下手にいた人たちはもう捕虜となり、私達二世帯だけが、残されているとの連絡が入り、必死になってけわしい山を降り始めたのです。
 山道は、夕暮れにさしかかり、死人が散乱している『膨れ上がった人』『うつ伏せになっている人』を起こし、父ではないかと、周辺を探しているうちに薄暗くなり、幼子を連れた母は、とうとう前に歩き出し海岸沿いのトラックに乗せられました。気づいたら六月二十日でした。行く先は、久志小の収容所です。そこには村長さんのご両親も居られました。息子の村長さんは亡くなられたようです。毎日海岸端に立って手を合わし息子の名前を呼んでいる姿は、あまりにも気毒でした。
 二、三日経って、宜野座村の古知屋に移り民家にお世話になりました。ちょっと落ちついたところで父を思うあまり、私が一緒だったら手を上げて捕虜になっていたか、また私とともに死んでいたか、私にはどっちでも良かったと思ったほどです。色々と情報が入り、もしかしたらハワイへ連れて行かれた人達と一緒に生きているのではと、かすかな希望を持っていました。
 暫くたって学校が始まり、高校入試へ合格しました。翌年は、宜野座村から小禄村のテント小屋へ帰った時、祖母も元気であるとのことは知らされていましたが、本当に生きていた事の喜びを分かち合いました。我が家は(父と、叔父二人)三人の息子をなくした祖母の哀れみが悲しく、でもどこも一緒だからと強気を示し敗戦後の生活に勇気をつけてくださったのです。
 兄弟の次男おじいさん宅も年寄りのおばあさんだけ残し皆全滅です。母は男手なしで二人の祖母と四人の子供を抱えての生活苦に一時は病に倒れ、私が一家の柱にならざるを得なく必死に働きました。母は一年後に元気を取り戻し家庭も明るくなりました。

 ある日、祖母の前に特攻隊の予科練から帰ってきたと三男叔父の友人が訪ねてきました。祖母は、一緒にいく事になっていた文雄は私が引きとめたのが悪かったと嘆き悲しむのが痛々しかった。学徒動員の死です。次男叔父はブーゲンブレアでの戦死です。もう一人の祖母は八十歳の高齢で、二人の孫は学徒動員の死です。それから二人の祖母はそれぞれに心の痛みを持ったまま十年以内に昇天しました。その頃三十七歳の父を失った私は、何時までも思いが断ち切れずいつの日かこんな詩を口にしていました。

 父恋し山のふもとの滝枕水の音にも悲しみつのる

戦後五十年経っての母への思いです

 いくさばで父をなくせしはは心幾年たちてもいされることなし

戦後五十年の節目にあたり、平和の礎に刻まれた我が家の具志家は四名です。次男叔父は婚約者がいて、この方も従軍で戦死し、トートーメー結婚させて戸籍に載せました。長かった礎、今やっと父達の墓碑が認められました。私の主人は健児の塔の生き残りです(鉄血勤皇隊)そして兄二人は礎に刻まれています。 
平和の礎を建立してくださった皆様方に心から感謝申し上げます。
 戦争にかかわりのない多くの人々を不幸や悲劇のどん底に突き落とし、人間の運命を変えてしまいました。『命ど宝』を提唱し、二度とくり返してはならない戦争を徹底的に憎み平和の尊さをとことん知るべき立場から、戦争体験者の一人としてつたない発表をさせていただき ありがとうございました。
 平成七年八月十五日那覇市中央公民館にて          赤嶺 小枝子
     

十一歳の少女の戦争体験記
              
 昭和十九年・沖縄

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